先週末の連休は、親戚の結婚式があり仙台に出かけていたのですが、
何と結婚式の会場で同じ時間に偶然会議をしていた友人に20年ぶりに再会!!
これも何かのご縁かと、その友人の案内で岩沼から名取までの沿岸部を巡りました。
岩沼市内を抜けて、仙台空港方面へ。
総面積の半分が津波で浸水したという岩沼市内では仮設住宅が、まち並みの一部となっていました。
震災後1年8か月以上たった今も、そこで日々の暮らしを営んでいる人たちが大勢いる。
宮城県内の仮設住宅には、まだ8万人もの方々が生活していらっしゃるとか。
県内では最初に地域ごとの集団移転先が決まったという岩沼市でも
様々な理由から、実際に移転を決めたのは、半分ほどの世帯にとどまっているそうです。
こちらは震災前には、イグネと言われる屋敷林が点在していた場所。
イグネとは、田んぼに囲まれた農家の背後にあるこんもりとした樹林のこと。
風や砂、潮や火などを防ぐ役割、燃料や肥料を供給するは背戸山の役割などを持ち、
農家の人たちにはなくてはならない屋敷林です。
そのイグネ、今は跡形もなく、吸い込まれそうな広い土地が静かに広がっていました。
こちらは、ずっと気になっていた
岩沼市の取り組み「千年希望の丘」つくりに向けて、
今年の5月に植樹された苗木たちの丘。
そこに照葉樹を主とする樹木を植樹することにより、
丘の高さと樹木によって津波が来た時のエネルギーを減じて、
住宅や工場地帯などを守る丘のこと。
この森の防波堤は、津波除けであると同時に、
その土地本来の樹木(潜在自然植生)によって構成された
豊かな生物多様性を維持する「いのちの森」でもあるのです。
またまた!!驚くことに、そのプロジェクトに関わっているという友人によると、
様々な声や問題点もあり、先の長い道のりではあるということでしたが、
植樹後半年を過ぎ、苗木は確実に生長していました。
そして、夕闇の中では、明るい時には見えないものが見えたりもするのですね。
道路自体が防潮堤の役目を果たしたという道を走ると、
左側の沿岸方面には暗闇が広がり、右側仙台市内側は光に溢れていました。
沿岸方面に点々と見える明かりのほとんどは、瓦礫処理場だそうで、
処理場の煙突からは暗闇に煙が立ち上っていました。
今回の震災で出た30年分とも言われるガレキは、
毎日毎日、こうして瓦礫処理場で焼却されているのですね。
最終的にすべて処理するまでには、まだ何年もかかるのだそうです。
その反対側、少し先の仙台市街地方面を眺めれば、
ライトアップされたテレビ塔が4基。
街中の通りには、イルミネーションが輝いていました。
一緒に沿岸部を巡った友人のご実家は農家。
家屋は津波で流されたそうです。
私が食べてきた中で一番美味しいと思ったお米を作っていた田んぼも全て浸水し、
昨年は収穫なし。今年の収穫は一昨年までのわずか25パーセント。
それでも、そのあたりでは、とてもとても恵まれているのだそう。
外から眺めていることと、内側からの声を聴くことは、全く違うもの。
一見元気を取り戻しているような人たちが暮らす地域でも
遅々として進まない部分がいかに多いことか。
さらに、復興が進む中で、重たい影をおとす原発の問題。
その土地でしか暮らしていけない人たちが大勢いて、
様々な問題を抱えながらも、そこで踏ん張っている。
これから先をどうしていくのか、と同時に、今をどうするのか、
今も、これから先の長い道のりもずっと重たいものを抱えながら進む
気の遠くなるような復興だということを忘れてはならないのだと改めておもうのです。
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岩沼市で計画されている「千年希望の丘」は、
宮脇昭先生が提案されている「森の防波堤」
いのちを守る300キロの森づくりの一環でもあります。
詳しくは、こちらをご覧ください→宮脇昭「いのちを守る300キロの森づくり」
平田寺では、宮脇先生が提唱される潜在自然植生による森づくりに賛同し、
今年の3月に「ふるさとの木による千年の森づくり」植樹会を実施しました。
その時の様子は、ブログ「てらてら」をご覧ください→「ふるさとの木による千年の森づくり」