2007年09月

「暑さ寒さも彼岸まで」という諺があるように、日本人にとってお彼岸はとても身近なもの。

秋なら秋分の日、春なら春分の日を中日として前後3日の7日間。

「その期間は、彼岸へ渡るために徳をつみましょう。」(夫談)という期間らしいです。

彼岸会を行なうお寺もありますね。

煩悩や迷いに満ちたこの世を「()(がん)」というのに対して、向う側の極楽浄土が「彼岸(ひがん)

この時期には、おはぎ(春ならぼたもち)や彼岸団子をお供えする習慣があります。

これも餓鬼に施す、徳をつむということになるのかしら。

スーパーで「あ~らお団子!そういえばお彼岸ね~」何ていう声を耳にして、

千何百年も続いている日本仏教の代表的な行事のひとつを、

スーパーの団子をみて、思い出すっていうのも、どうかと思いましたので、

今年はこどもたちと、お彼岸っぽいことをしてみました。

一緒に彼岸団子づくりです。

米粉に熱いお湯を注いで、コネコネして(捏ねれば捏ねるほど美味しくなるそうですが、

500グラムの粉を10分も捏ねれば、もちもちのお団子が出来上がりました。)、

一口大に丸めたものを人差し指と中指の二本でつぶしながらか形作って、

蒸し器で20分蒸したら出来上がりです。

つるつるぴかぴかの出来立てのお団子を、物欲しげにながめるこどもたちでしたが、

先ずは本尊さまやお墓にお供えして、お下がりをいただきました。

お金を出せば、何でも手に入るときだからこそ、ちょっとしたきっかけがある時に、

ちょっとしたことを伝えていきたいと思うのでした。

で、夜になって気づけば、今日は中秋の名月。

いつもは、まんまるのお団子をお供えするのですが、

急遽冷凍団子を蒸しなおして、今年はお月さまにも、彼岸団子。

お月さま、ゴメンナサイ・・・

ススキを飾って、里芋、人参、大根、蓮根をお供えして、お月さまに願いごとしました。

毎年の我が家の恒例行事でした。


最近、格差というコトバが何故か頭からはなれず、ぐるぐる廻っていています。

格差自体は、今も昔もあり続けている中で、

格差が問題視されるようになった背景は何だろう?

格差の拡大と固定化、そこから生じる様々な問題・・・

日本の国をすっぽりと覆っているともいわれていますが、、

経済的には、まだまだ豊かな日本においては、

例えば、(名古屋の)ミットランドスクエアで、日常的に食事をしたりショッピングしたりできる人と、

自分は中流とだ感じている人とでは、差し迫った格差感はないし、

飛行機をチャーターして旅行に行くような人たちとは、接点がないから、格差はあまり感じない。

それと同じく路上生活をしている人たちとの接点も、多くの国民は持っていない。

そして、今は、ちょっとしたきっかけと勇気さえがあれば、誰でも大概のところへは、足を運ぶことができるのが日本の社会です。

ただ、格差は確実に存在し、拡大し、固定化しつつあることも確かです。

 

世界的に観れば、日本のお金持ちは、慎ましやかな生活をしている人がほとんどだそうで、

日本に存在する貧困は、途上国といわれる国々の貧困とは種類の違うものだという指摘も頭に置きながら、考えてみました。

この格差が、日本という国にとって致命傷にならないために今、何ができるか。

制度面の充実はもとより、それと同じくらい、「格差感」が重要な切り口になるのではないかと思っています。

 

今の日本の格差感の根っこにあるのは

戦後、導入された民主主義思想と戦前からある共産主義的な思想とが、

結びついて日本人の中に知らず知らずのうちにできあがった偏った平等感と、

長い間かけて培われてきた、日本にしかなかった精神的な支柱の揺らぎではないかと思います。

また、経済格差があったにもかかわらず、戦後長い間、それが問題視されなかったのは、

高度経済成長によって、日本全体が目に見える形で経済的に豊かになってきたこ、

分相応という価値観を国民全体が心得ていたこと、

このふたつが、大きな原因ではないでしょうか。

1990年代以降、「格差社会」問題視されるようになったきっかけとしては、

大量の情報の行き来が可能になったことと、

モノが豊かになり、お金さえ出せば大抵のものは手に入れられるようになったことで、

長い間日本人の中に生きていた、分相応という価値観が崩れてしまった、

ということが挙げられると思います。

 

転換期といわれる今、格差という意識が浮上してきたことは、

変化しつつある価値観にみあう生き方を創りだすためにも、

日本人にとって必要なことだとも思えるのです。

 

西欧から個人主義という思想が、流れ込んできた明治維新から140年、戦後60年余り経った今、

欧米諸国が200年かけて熟成してきた

キリスト教に基づく西洋的個人主義と日本の個人主義は、似て非なるもの、

一神教的な思想を土壌とした個人主義と、日本の多神教的な土壌とした個人主義(武士道に代表される自分で自分を律する個人主義)とを、

明確に意識していかなければならない時期にさしかかっていると思えるのです。




夕食時に、息子(小5)が、突然たずねてきました。

「1兆円ってどれくらい?」と聞かれて、

「1億円が1万個だから、1億の家が1万件建てられるし、

高層ビルだって何棟も建てられそうだし、山をひとつ買うことだってできるし・・・」

創造もつかない金額に、ブツブツ呟いていると

 

「本堂建て替えて、

庫裏も新しくして、

僕たちの部屋もつくって、

まだ残る?」

「1兆円あったら、こんな食事してないよね。」

「テレビは、違うんじゃない?」(我が家にあるのは、98年製のブラウン管テレビ1台)

「アレは?」「アレは?」「アレは?」と家電製品を指しまくっていました。

すっかり興奮状態の息子に、

「お父さんと、お母さんのことだから、きっとこんなものよ。

壊れたら、新しいの買う時は、もう少しいいのを買うかもね」

母の答えに「1兆円あっても、あんまり変わらないじゃん」と不服そう。

夢を壊すようで、悪かったなぁとおもいつつ、まあ、常々そうありたいなと、

思っているということを、伝えたかったのです。

ただ、その金額を実際手にしたとき、庶民である私はどうするのかなと、

平常心でいられるのかと、ふと思う夕食時の一こまでした。

 

 

 




友人ファミリーと1泊2日で、蒲郡に遊びに行ってきました。

ちょっと時間ができたので、橋を渡っていくことができる小さな島、

竹島に寄り道をしました。

観光なんて、そっちのけ、橋を渡りきると、海に一目散です。

ちょうど潮が引いていた岩場には、小さなタイドプール(潮溜まり)があちらこちらにできていました。

中をのぞくと、大小様々なヤドカリがザワザワ~ッと動きます。

こどもの手のひらサイズのヤドカリまで出現して、中からは、まるでカニのあし?

と見間違えるほどの太い手?あし?が!

カニやエビ、何かの幼魚や海藻類・・・

たくさんの生き物が、小さな世界でうごめいていました。

総勢7人のこどもたちと父ちゃんふたりは、もう夢中です。

風の音、磯の匂い、海草や岩場の手触り。

自然からの無限の情報を全身で受け取り、

それが神経細胞までしみこんでいっているのだろうなあ~と思いました。

そこで得た情報や感性は、そのこの中にずっと生きつづけるに違いない、と。

 

ちょっとした時間つぶしのはずが、潮が満ちて、

帰り道がなくなってしまうのではないかと心配になるほど、

どっぷりと楽しんでしまいました。

観光地(竹島は、島全体が国の天然記念物)なので、磯遊び目当てに来る人たちは、見当たらず、

軽装でも十分に楽しめました。が、サンダルは必要です。

 7人のこどもたちは、いわずもがなスニーカーもジーンズも、

びしょ濡れでしたので(苦笑)・・・

 










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