私にとってある意味母以上の存在だった祖母が亡くなって10日。

亡くなる1週間ほど前からはICUに入り、

目を開くことも、言葉を発することもなくなっていました。

日に日に弱っていく姿を見ながら、

もうこの人と言葉を交わすことがないのかもしれないという思いと、

これまでもらったものばかりが浮かんできました。

お医者さまは、意識はないとおっしゃるのですが、

話しかけると呼吸数が変化したり モニターの数値が変化する気がするのです。

通夜の時も葬儀の時も遠くを見つめるような気持ちでしたが、

溢れすぎて収拾がつかなくなりそうな思いの中から、

祖母が私に遺してくれたものを少しずつ整理しています。

 

70年前大恋愛の末に、みちのくの地から岐阜の片田舎に嫁いだ祖母は、

頼りになる親族や友人もなく、もちろん目指すべきモデルもなく、

農家の嫁として生き、戦前・戦後をくぐり抜けたのです。

女学生時代はお稽古ごとに明け暮れた世間知らずのお嬢さまだった祖母は、

習慣も言葉も全く違う土地で、ただ一人ひとつひとつを自分の中から搾り出すように生きてきた人です。

物静かで、いつもいつも温かくて鋭い目で世の中を見ている人でした。

何も言わなくても、その人が求めているものがわかるような人でした。

孫である私たちはもちろん、子どもである母もおじたちも 

祖母が声を荒げた姿は記憶にないといいます。

 

同じ仙台から名古屋に嫁いだ私は、高校の同窓生ということもあり、

祖母と自分を重ね合わせることも多かったのです。

女学校時代の話をする祖母の顔が何よりも好きでした。

コルセットをして編み上げのブーツを履いていたという

女学校時代の祖母の姿を想像するだけでワクワクしたものです。 

今と祖母の生きた時代では、何もかも違っていて祖母の生きてきた時代をなぞるだけで

息切れしてしまうほど、安穏と暮らしている私のことを

きっと心もとなく見守っていてくれていたのでしょう。

今は、そんな人の血が私の中にも流れていることを誇りに思い

祖母が遺してくれた つかみ所がないのに決して揺らがない強さを

少しでも我が身に持っていたいと思うのです。

 

実は祖母の葬儀は、奇しくも息子の得度式と重なり、

郷里から葬儀に参列した両親や妹たちも、得度式に参詣してもらうという贈り物をもらいました。

祖母のことだから、きっとその日を選んで逝ったのでしょう。

積極的に何かを求めるようなことはせずとも、流れに身を任せながらも揺らがない

祖母の生き方を思いました。