長男が友達の家にお泊りに行き、
昨夜から我が家は3人娘5人家族、とても穏やか。

家の中で、ボールが飛び交うことはないし、組み合わせが少ない分ケンカも少ない。

何するにも一呼吸する余裕があるような気がする・・・

けど、これはあくまで主観の問題。



子どもひとりのときは、それで手一杯だったし、

自分の時間がない!ない!って、大騒ぎしてた。

2人のときは2人のときで、3人のときは3人のときで、

いっぱいいっぱいって、感じだったし、

4人になれば4人になったで、大変なような気がしているけど、

もし仮に、我が家にもうひとり子どもが生まれたら、

今の状況が優雅に感じられるのだろう。

人間の主観なんていい加減なもの。

慣れは恐ろしい、いや、慣れはありがたい。



小さな子どもがいると「今じゃなきゃダメ!」と思う自分が、

とても我がままに感じるし、周囲からは、

「もう少し待てないの?」「今じゃなくたっていいじゃない。」という声。

でも、子育て終わったら、子どもの手が離れたら・・・

なんて思っていたら、ホントにあっという間に、時は流れてしまうのも事実。



母である女性が真剣に何かに取り組むには、手放すこと、

あきらめること、そして、踏ん張るところは踏ん張る覚悟が必要だとおもう。

子どもが生まれることで、ココロも身体も、置かれた状況や立場も大きく変化する。

なのに、向き合わなければ向き合わないで、何となくすり抜けてしまえる時期。

裏を返せば、きちんと向き合って、考えれば考えるほど苦しくなってしまう時期でもある。

それまでの自分の生き方とか、周囲とのコミュニケーションのとり方とか、

これから何をして生きていくかとか、

自分の身体のことココロのこと、パートナーを含めた周囲の人との関係・・・

小さな子どもがいる状況で、そのこの親として、

ひとりのおとなとして、何をしていくべきか?

ギリギリのところで、見極めて、選択をして、切り抜けていく、という感じ。



こんなときにこそ、

おとなの時間とこどもの時間は、同じ速さでは流れていないということ、

守るべき存在を持つ立場であることを忘れずにいたい。

子どもと長い時間を共有するからこそ、心地のいいものも、

そうじゃないものも含めて、感じることがあるということを忘れずにいたい。



時を追うごとに、目に見えて成長していく存在であるこどもは、

おとなとしての自分の成長を見極める、尺度にもなってくれるありがたい存在だと思う。

長男が友達の家にお泊りに行き、
昨夜から我が家は3人娘5人家族、とても穏やか。

家の中で、ボールが飛び交うことはないし、組み合わせが少ない分ケンカも少ない。

何するにも一呼吸する余裕があるような気がする・・・

けど、これはあくまで主観の問題。



子どもひとりのときは、それで手一杯だったし、

自分の時間がない!ない!って、大騒ぎしてた。

2人のときは2人のときで、3人のときは3人のときで、

いっぱいいっぱいって、感じだったし、

4人になれば4人になったで、大変なような気がしているけど、

もし仮に、我が家にもうひとり子どもが生まれたら、

今の状況が優雅に感じられるのだろう。

人間の主観なんていい加減なもの。

慣れは恐ろしい、いや、慣れはありがたい。



小さな子どもがいると「今じゃなきゃダメ!」と思う自分が、

とても我がままに感じるし、周囲からは、

「もう少し待てないの?」「今じゃなくたっていいじゃない。」という声。

でも、子育て終わったら、子どもの手が離れたら・・・

なんて思っていたら、ホントにあっという間に、時は流れてしまうのも事実。



母である女性が真剣に何かに取り組むには、手放すこと、

あきらめること、そして、踏ん張るところは踏ん張る覚悟が必要だとおもう。

子どもが生まれることで、ココロも身体も、置かれた状況や立場も大きく変化する。

なのに、向き合わなければ向き合わないで、何となくすり抜けてしまえる時期。

裏を返せば、きちんと向き合って、考えれば考えるほど苦しくなってしまう時期でもある。

それまでの自分の生き方とか、周囲とのコミュニケーションのとり方とか、

これから何をして生きていくかとか、

自分の身体のことココロのこと、パートナーを含めた周囲の人との関係・・・

小さな子どもがいる状況で、そのこの親として、

ひとりのおとなとして、何をしていくべきか?

ギリギリのところで、見極めて、選択をして、切り抜けていく、という感じ。



こんなときにこそ、

おとなの時間とこどもの時間は、同じ速さでは流れていないということ、

守るべき存在を持つ立場であることを忘れずにいたい。

子どもと長い時間を共有するからこそ、心地のいいものも、

そうじゃないものも含めて、感じることがあるということを忘れずにいたい。



時を追うごとに、目に見えて成長していく存在であるこどもは、

おとなとしての自分の成長を見極める、尺度にもなってくれるありがたい存在だと思う。

夫とふたりでお出かけのため、子どもたちは夫実家へ。
4人の子どもをまとめて長時間お願いするのは、やっぱり実家が一番気楽。

養父母には、まさか頼めないし、母実家は、はるか800キロ遠方。

そんなこんなで、車で1時間の夫実家に。

長男が生まれた当時、夫は単身赴任中。

その頃はまだ、歩いて10分のところに住んでいた。

毎日、夕飯の前に上がりこんで、ご飯食べさせてもらって、

まだフニャフニャのころから、長男をお風呂に入れてもらい、

ついでに私もお風呂をもらって、

家に帰って寝るだけ、という生活を1年半も続けてたっけ・・・

夫実家には、大ばあちゃん、じいちゃん&ばあちゃん、義兄夫婦と娘3人。

8人に三男の嫁+孫6号が、増えたところで何のその、という感じだった。

そんな中で、大きくなった長男は、まるで自分の家のように、恋しがる。

いとこのお姉ちゃん達のことも大好きで、今でもじゃれ合ったりする。

そりゃ義理の関係、色んな気持ちの行き違いも、あるにはあるけど、

そんなこと帳消しにしてしまうくらい、あたたかい関係性がある。

地縁も血縁もみ~んな大事。

今朝は2週間に一度の早起きの会。

初参加の子もいて、古株勢は先輩顔で、読経の声もちょっと違っていた。

会が終わってから、昨日からお泊り参加のTくんと、息子の同級生Yくんを含め8人での朝食。

4年生3人組みは、今日の計画をあれこれ練っていたのだけれど、

実現は難しかったらしく、お決まりのお片づけタイムをみんなで済ませると、

夏休みの日誌に載っていた、食塩水に卵を浮かせる実験(4年生)と

朝顔の叩き染め(1年生)をワイワイ楽しんでいた。

こうやってやると宿題も楽しいよね~

ひとしきりウチ遊びが終わると、1歳の三女も交えて、

裏の畑からとってきたカマキリをブランコに乗せてみたり、

捕まえてきたタニシやおたまじゃくしと遊んでいた。

こんな時は、1歳10ヶ月から10歳まで6人のこどものいろんな関係性があって、

そのやり取りで、社会性が身についていくんだろうな~

などと思いながら、ケガとうんちのオムツがえ以外は、手も口も出さずに眺めている。

それにしても、バッタとカマキリが家の中で飛び跳ねた時には流石にギョッとした。

そんなわけで、こんな日は、大事なお客が帰られてから、掃除に精を出すことに決めている。


今日は、ダンスのレッスン日だった。

ヒップホップ系のジャズダンスということなのだが

何がどう違うのかさえも??な初心者が、ちょっと思ったことを・・・

まず専門家の目から見ると、今の私の身体、全くイケてないらしい。

例えば、ターンの時の腕(僧帽筋上部をストレッチしようとすると、

三角筋の力まで抜けてしまうとか)

バーレッスン時の上体のブレ(肩甲骨を内転すると、腹直筋上部が緩んでしまうとか)、

日常生活でついついとってしまう姿勢(アゴを前に出してしまう癖とか)、

そんなことに的確にチェックがはいる。

解剖学的なコトバはないが、みぞおちをつままれたり、あごをはじかれたりしながら、

気付かせてもらえる。

その度、鏡とにらめっこ。一瞬なら何とかできる姿勢も、維持するのは至難のワザ。

この頃の私は、骨・筋肉というコトバに敏感に反応してしまうのだが、

骨や筋肉のカタチを思い浮かべたり、

家に帰ってから解剖学のテキストを開いたりして確かめながら、

それはそれで楽しんでいる。

「ミセスのジャズダンス」なんてユル~イ講座名だから、油断していたが、

ここ尾張地方じゃ、厳しいことで有名な先生らしく、

週に2度3度、レッスンを受けている方々の中で、私はどうやら最年少らしい。

大人になると、特にいわゆる専業主婦になってしまうと、

狭い社会の中で自分の天下になってしまうことも多いので、

きちんとつっこみいれてくれる人の存在ってホントにありがたい。

そういう場に自分をおいてみることで、自分を客観的に見る目を保つことができる。

それにしても、ただ細いだけじゃない踊れる人の身体は、美しく魅力的だ。


久しぶりに会う友人と、某ファミレスで待ち合わせ。
彼女は、鈴木メソッドのピアノの先生、音楽療法士、NPプログラムのファシリテーター、
色んな顔を持つ、ふたりの孫のおばあちゃん。

この尾張地方独特の文化と私たちの今後を熱く語り合ったのだけれど、
周りは、夜の11時過ぎだというのに賑わっていて、
それも幼児連れの客の多いことといったら・・・
おまけにその子ら、やけに元気で食欲もある。なぜ?
昼間のファミレスの雑多とした状況は、よくよく目にしていたけれど、
何だか、変な世の中です。


Nobody's Perfect プログラムの普及版テキスト
親の気持ちに寄り添ってくれる育児書です。
完璧な親なんていない!

3女は週に2~3回、地元の公立保育園の一時保育を利用している。
次女が、通っている保育園なので、送りも迎えもふたり一緒。
今では、園での生活にも慣れて、とっても楽しそう!

長男は1歳半、長女・次女は2歳前後から保育園に通っているのだが、
3女は、何だか保育園に通わせるのがもったいなくて、
今のところ一時保育を選択している。

子どもが、保育園に通うことで、
大人は大人の時間を、こどもはこどもの時間をもつことができる。
保育士さんとのやり取りで、わが子の新たな面を発見したり、
四六時中一緒にいたら、見過ごしてしまうであろう成長が見えたりする。

ウチに限っていえは、ひとりの子としっかり向き合う時間がとれるのも嬉しい。
息子とふたりで映画を見にいったり、娘とお出かけ用の洋服を買いに行ったり、
ふたりっきりで折り紙したり、工作したり・・・
普段は4人の母親なのだがが、そのときは、ひとりだけのおかあさんになれる。
学校でのちょっとしたイザコザ話をボソッとこぼしたり、
しっかり者の長女が猫みたいになって、すりよってきたり、
普段はそれぞれ自分の立場を理解して、我慢していることもたくさんあるので、
そんな時こどもは、本当にいい顔をする

で、今日は末っ子の日。
朝からゴロゴロじゃれあったり、わらべうたうたったり、
これでもかっていうほど絵本を読んだり、
久々にベビーマッサージしたり、濃い時間を過ごすことができた。

毎日、ふたりきりで向き合っていては、息が詰まるこんなことも
こども達の存在をすっかり忘れて、大人として過ごす時間を持っているからこそ、楽しめる。

どんな時期にどんなところに子どもを託すか、というのは
保護者の就労状況や意識、その子の気質や、親子の相性、
周囲の大人たちの考え方、地域性・・・
一概に言えることではないが、
子どもを、自分ひとりで抱え込んでしまうのは、その親子はもとより、
社会全体にとっても良いことではないとおもう。
子どもは、周りの人を笑顔をする力を持っているからね。
子どもがもつかわいらしさを共有していくことで、
社会全体が優しくなっていくことも可能なのではないか、ともおもうのです。


★絵本のこと
赤ちゃんは生まれて3ヶ月くらい経つと、大人と一緒に絵本を楽しむことができるようになる。
一緒に寝転がって、首が据われば膝に乗って楽しさを共有できるようになる。

赤ちゃんが初めて出会う絵本は、言葉遣いがきれいで、絵がはっきりしているものがいい。
そして、何よりその子が好むものがいいと思います。
お誕生のころには、あれこれ読んでる中で、好き嫌いも出てきたりして驚かされます。

赤ちゃんのために創られた絵本は、日常生活での会話ではなかなか出会えない言葉や、
繰り返しの擬音(赤ちゃんは大好きなの!)に触れる機会を提供してくれます。
信頼する人の肉声は赤ちゃんにとって、この上なく心地が良いものです。

赤ちゃんは繰り返しを好みます。
だから、何度も何度も繰り返して、赤ちゃんを楽しませ、安心させてあげたいものです。。
日常生活での、語りかけのほかにも、洗練された言葉をたくさん届けてあげることが、
言葉のもと・言葉の土台を作ります。

意味を求める大人と、感じるだけで満足するこども。
大人とこどもの違いを理解し感じながら、大人も一緒に楽しむことが何より大事ですね。

絵本と一緒に暮らしてきた子は、ふと気付くと、読んでもらったことを思いながら、
絵本のページをめくっていたりします
読んでもらった時の心地よさを、思い描きながら楽しんでいるのでしょう。


★幼年文学
文字が読めることと、本が読めることは違うし、読んでもらうことと読むことも全然違います。
たくさんの言葉かけの中で育ち、たくさんの絵本を読んでもらってきた子は、
言葉と意味を速やかに結びつけることができるようになります。
ころになると、頭の中で、イメージを描きながら、そのイメージをつないで、
それを楽しむことができるようになるのです。
ここが幼年文学の入り口。

幼年文学を堪能できるのは、ごくわずかの時期(年齢的には6~8歳ころといわれてます)、
現実にはありえない、何でもありの世界を十分に堪能する経験を持つことは、
それから続く人生に彩を添えてくれるものではないかと思います。

★児童文学
児童文学とは、主人公が成長していく過程を物語を通して自然に体験することで、
読み手が元気をもらい、自分の成長の過程を見極めたり、
これからの成長の見通しを立てる手助けになるものだと思います。
出会った物語を、これからの生きていく糧としていくことができれば最高だと思います。

★読み聞かせ(読み語り)
読み手は、絵本や本をこどもたちとともに楽しむことによって、
文学の世界、絵画の世界をこともだちに手渡すという作業をしているのではないかと思います。
読み手の声によって、心を伝えることもできるのではないかと思います。


★わたしのこと
大人になってしばらくは、実用書的なものが読書の大半を占めていたのですが、
最近は、小4の息子と一緒にフィクションやノンフィクション、
ファンタジーといったいろいろな児童文学を楽しんでいます。
大人向けの小説が苦手なせいか、
児童文学が大好きになってしまいました。

おとなが児童文学を読む時は、過ぎ去った自分の成長過程と照らし合わせて、
回想にふけったり、その時の気持ちを主人公ともに味わうことによって、
育ちなおしをしたりしているのかもしれません。
読書は、個人的な問題なので、ことこどもに対しては感想を求めたり介入したりすることは、
極力避けています。


今思えば、結婚した当時は、家事はほとんど私がひとりでこなしていたような気がする。
そのときは、半日のパートみたいな仕事しかしていなかったし、
子どももいなかったのに、何だか家事はすご~く大変な仕事のように感じていた。

結婚12年目を迎えている今は、
いつの間にやら「できる時に、できる人が、できることをする」
というカタチに落ち着いてきている。
この頃は、成長したこども達が、その一端を担ってくれるようになって、
ますます、いい感じで、まわっている。

個人的には、育児や家事は生活の一部であって、
とりたてて誰かが受け持つものではないと思っているのだけれど、
よく「協力的ね~(羨ましいわ~)」とか、
「優しいよね~」とか、「かわいそ~(多分夫が?)」とか
ピンとこないコトバをかけられることも多いので、
どうしてこのカタチに落ち着いたのか、ちょっと考えてみた。

そういえば、今までに、家事分担について話し合ったり、
直接そのことで、言い争いになった記憶はない。
(他のことでは、意見が合わないこともしょっちゅうで、その度に、
長々と話し合ったり、あきらめたり、悔しい思いをしたりしています。)


物理的にも精神的にも家庭内だけでは、処理しきれない問題も多いから、
そのときは、友人や知人、時には近所の方々に助けてもらったり、
公的サービスを利用したり、
他にも、色々なものに助けてもらっているのだけれど、
基本的には、家庭の中でできることはしていきたい、
というふたりの希望があるので
そのために、「できる時に、できる人が、できることをする」
というカタチが一番シンプルで、手っ取り早い。
そして、それをふたりが好んで選択しているということなのかな。

話し合いで、決まりを決めて、それを各々がきちんと実行する、
ということが苦手な組み合わせ、ということも影響してか、
試行錯誤しながら、何となくこのカタチが築き上げられたというのが正直なところ。

ただここまでくるには、12年の歳月があるわけで、
これからも、家族構成や周りの環境の変化によって、
どんどん変化していくものだと思っている。
どんなきっかけで、どんな過程で変化していくかは、状況によって違うけれど、
どんな些細なことでも、変化する時には、波風が立つもの。

その集団を構成している、ひとりひとりが、どんなことを大切にしていて、
どんな理想を持っているのか、それをしっかりと確かめ合って、認め合っていることが、
細々としたことを乗り越えるための、応用の利くエネルギー源にもなるんじゃないかと思います。


郵便受けをのぞくと、息子宛の中日新聞社からの封筒が・・・
えっ!取材?(実は長男、数日前に自転車×乗用車の事故に遭っており、
救急車で運ばれている。って取材のわけないんだけどね~)
と思いきや、チケットプレゼントの当選通知だった。やった~!
このところ、色々と当たりっぱなしで、ちと怖い。
中日×阪神戦チケット4枚は、どんな組み合わせで観戦するか迷うところです。


ところで数日前の事故の話。
夕方、突然電話が鳴り、見知らぬ女性の「お宅の息子さんが・・・」という声。
こういう時って、何だかピンとくるものですね。
ド~ンとお腹に穴が開いたようなような状態で、娘3人を連れて現場へ。
息子は大丈夫らしいけど、ヘッドライトやフロントガラスは割れてるし、
何だかすごい人だかり・・・
息をするのも忘れる心もちで、息子の姿を見つけ駆け寄ると、
小さくなって「死ぬかと思った・・・」と一言。
その後、駆けつけた夫とともに救急車で病院へ。
検査を受けて夜遅くに帰宅し、次の日は様子を見るため、学校を休んで自宅待機、
変わった様子もなく、先ずは一安心。
ホントに、かすり傷ですんでしまったのです。

周りの人(多くは大人)が抱えている
目に見える、目に見えないあらゆる問題を
こどもが引き受けてくれたような気がしています。
思い起こせば、夫婦ともに仕事が忙しく疲れが溜まって、
会話がなく殺伐としてたんだよね、この頃。

人はひとりひとり違う存在で変化していくし、
お互いに思いを伝え合わないと、不協和音が鳴り響き、何だか変なことが起きてしまう。
それに気付かない振りをして暮らしているけれど、やっぱりどこかに歪が出てきてしまう。
今回の事故は、その表面化だったにちがいない。
運が良いとか悪いとかじゃなくて、
この事故は偶然ではなくて、私たちは何かに守ってもらっているなぁ~と。
そんなことを思うに至りました。

ところで、
野球オタクに近い野球少年の息子の夢は、もちろんプロ野球選手。
その夢が砕かれることがなかったことに、感謝です。
自分や、自分の大切な人が出会う事故や、病気といった負の出来事は
本当にいろんなことを教えてくれます。


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