★絵本のこと
赤ちゃんは生まれて3ヶ月くらい経つと、大人と一緒に絵本を楽しむことができるようになる。
一緒に寝転がって、首が据われば膝に乗って楽しさを共有できるようになる。

赤ちゃんが初めて出会う絵本は、言葉遣いがきれいで、絵がはっきりしているものがいい。
そして、何よりその子が好むものがいいと思います。
お誕生のころには、あれこれ読んでる中で、好き嫌いも出てきたりして驚かされます。

赤ちゃんのために創られた絵本は、日常生活での会話ではなかなか出会えない言葉や、
繰り返しの擬音(赤ちゃんは大好きなの!)に触れる機会を提供してくれます。
信頼する人の肉声は赤ちゃんにとって、この上なく心地が良いものです。

赤ちゃんは繰り返しを好みます。
だから、何度も何度も繰り返して、赤ちゃんを楽しませ、安心させてあげたいものです。。
日常生活での、語りかけのほかにも、洗練された言葉をたくさん届けてあげることが、
言葉のもと・言葉の土台を作ります。

意味を求める大人と、感じるだけで満足するこども。
大人とこどもの違いを理解し感じながら、大人も一緒に楽しむことが何より大事ですね。

絵本と一緒に暮らしてきた子は、ふと気付くと、読んでもらったことを思いながら、
絵本のページをめくっていたりします
読んでもらった時の心地よさを、思い描きながら楽しんでいるのでしょう。


★幼年文学
文字が読めることと、本が読めることは違うし、読んでもらうことと読むことも全然違います。
たくさんの言葉かけの中で育ち、たくさんの絵本を読んでもらってきた子は、
言葉と意味を速やかに結びつけることができるようになります。
ころになると、頭の中で、イメージを描きながら、そのイメージをつないで、
それを楽しむことができるようになるのです。
ここが幼年文学の入り口。

幼年文学を堪能できるのは、ごくわずかの時期(年齢的には6~8歳ころといわれてます)、
現実にはありえない、何でもありの世界を十分に堪能する経験を持つことは、
それから続く人生に彩を添えてくれるものではないかと思います。

★児童文学
児童文学とは、主人公が成長していく過程を物語を通して自然に体験することで、
読み手が元気をもらい、自分の成長の過程を見極めたり、
これからの成長の見通しを立てる手助けになるものだと思います。
出会った物語を、これからの生きていく糧としていくことができれば最高だと思います。

★読み聞かせ(読み語り)
読み手は、絵本や本をこどもたちとともに楽しむことによって、
文学の世界、絵画の世界をこともだちに手渡すという作業をしているのではないかと思います。
読み手の声によって、心を伝えることもできるのではないかと思います。


★わたしのこと
大人になってしばらくは、実用書的なものが読書の大半を占めていたのですが、
最近は、小4の息子と一緒にフィクションやノンフィクション、
ファンタジーといったいろいろな児童文学を楽しんでいます。
大人向けの小説が苦手なせいか、
児童文学が大好きになってしまいました。

おとなが児童文学を読む時は、過ぎ去った自分の成長過程と照らし合わせて、
回想にふけったり、その時の気持ちを主人公ともに味わうことによって、
育ちなおしをしたりしているのかもしれません。
読書は、個人的な問題なので、ことこどもに対しては感想を求めたり介入したりすることは、
極力避けています。


今思えば、結婚した当時は、家事はほとんど私がひとりでこなしていたような気がする。
そのときは、半日のパートみたいな仕事しかしていなかったし、
子どももいなかったのに、何だか家事はすご~く大変な仕事のように感じていた。

結婚12年目を迎えている今は、
いつの間にやら「できる時に、できる人が、できることをする」
というカタチに落ち着いてきている。
この頃は、成長したこども達が、その一端を担ってくれるようになって、
ますます、いい感じで、まわっている。

個人的には、育児や家事は生活の一部であって、
とりたてて誰かが受け持つものではないと思っているのだけれど、
よく「協力的ね~(羨ましいわ~)」とか、
「優しいよね~」とか、「かわいそ~(多分夫が?)」とか
ピンとこないコトバをかけられることも多いので、
どうしてこのカタチに落ち着いたのか、ちょっと考えてみた。

そういえば、今までに、家事分担について話し合ったり、
直接そのことで、言い争いになった記憶はない。
(他のことでは、意見が合わないこともしょっちゅうで、その度に、
長々と話し合ったり、あきらめたり、悔しい思いをしたりしています。)


物理的にも精神的にも家庭内だけでは、処理しきれない問題も多いから、
そのときは、友人や知人、時には近所の方々に助けてもらったり、
公的サービスを利用したり、
他にも、色々なものに助けてもらっているのだけれど、
基本的には、家庭の中でできることはしていきたい、
というふたりの希望があるので
そのために、「できる時に、できる人が、できることをする」
というカタチが一番シンプルで、手っ取り早い。
そして、それをふたりが好んで選択しているということなのかな。

話し合いで、決まりを決めて、それを各々がきちんと実行する、
ということが苦手な組み合わせ、ということも影響してか、
試行錯誤しながら、何となくこのカタチが築き上げられたというのが正直なところ。

ただここまでくるには、12年の歳月があるわけで、
これからも、家族構成や周りの環境の変化によって、
どんどん変化していくものだと思っている。
どんなきっかけで、どんな過程で変化していくかは、状況によって違うけれど、
どんな些細なことでも、変化する時には、波風が立つもの。

その集団を構成している、ひとりひとりが、どんなことを大切にしていて、
どんな理想を持っているのか、それをしっかりと確かめ合って、認め合っていることが、
細々としたことを乗り越えるための、応用の利くエネルギー源にもなるんじゃないかと思います。


郵便受けをのぞくと、息子宛の中日新聞社からの封筒が・・・
えっ!取材?(実は長男、数日前に自転車×乗用車の事故に遭っており、
救急車で運ばれている。って取材のわけないんだけどね~)
と思いきや、チケットプレゼントの当選通知だった。やった~!
このところ、色々と当たりっぱなしで、ちと怖い。
中日×阪神戦チケット4枚は、どんな組み合わせで観戦するか迷うところです。


ところで数日前の事故の話。
夕方、突然電話が鳴り、見知らぬ女性の「お宅の息子さんが・・・」という声。
こういう時って、何だかピンとくるものですね。
ド~ンとお腹に穴が開いたようなような状態で、娘3人を連れて現場へ。
息子は大丈夫らしいけど、ヘッドライトやフロントガラスは割れてるし、
何だかすごい人だかり・・・
息をするのも忘れる心もちで、息子の姿を見つけ駆け寄ると、
小さくなって「死ぬかと思った・・・」と一言。
その後、駆けつけた夫とともに救急車で病院へ。
検査を受けて夜遅くに帰宅し、次の日は様子を見るため、学校を休んで自宅待機、
変わった様子もなく、先ずは一安心。
ホントに、かすり傷ですんでしまったのです。

周りの人(多くは大人)が抱えている
目に見える、目に見えないあらゆる問題を
こどもが引き受けてくれたような気がしています。
思い起こせば、夫婦ともに仕事が忙しく疲れが溜まって、
会話がなく殺伐としてたんだよね、この頃。

人はひとりひとり違う存在で変化していくし、
お互いに思いを伝え合わないと、不協和音が鳴り響き、何だか変なことが起きてしまう。
それに気付かない振りをして暮らしているけれど、やっぱりどこかに歪が出てきてしまう。
今回の事故は、その表面化だったにちがいない。
運が良いとか悪いとかじゃなくて、
この事故は偶然ではなくて、私たちは何かに守ってもらっているなぁ~と。
そんなことを思うに至りました。

ところで、
野球オタクに近い野球少年の息子の夢は、もちろんプロ野球選手。
その夢が砕かれることがなかったことに、感謝です。
自分や、自分の大切な人が出会う事故や、病気といった負の出来事は
本当にいろんなことを教えてくれます。


夫の職業柄、土日はこども4人とハハという体制で過ごすことが多い。
今日も朝から、一緒に洗い物して、掃除機かけて、
洗濯物たたんで、カレーライス作って、絵本読んだり、じゃれあったり・・・
ホントに盛りだくさんの一日でした。

週末ごとにお出かけしたり、長期の休暇を楽しむといったことはなかなかできないけれど、
何だか、いつも楽しい週末を送っている気がする。

このこたちは、大人になって親になった時、今の暮らしをどんなふうに
思い出すんだろう?

私は70歳になった時、そっ~とオルゴールのふたを開けるように
日常の細々したことのきれっぱしを思い出すのかもしれない。
自分が70まで生きて、こどもたちがみんな生きていたら、それだけだ満足かも・・・
なんて、
アマガエルのこどもがおとなになって、ジジジ・・・と鳴く声を聞きながら
缶ビール片手に、PCに向かうハハでした。

蛙の多い年は、蚊が少なくて人間の私は、助かります。


お昼ごはんを食べた、とあるお店での出来事。

隣のテーブルに、今にも雑誌のページに出てきそうな
キレイなハハと子(3歳くらいかな?)が座った。
お店に入ってから、ひとことも話さず、出されたお料理を無心に頬張る息子、
目もあわせず、にこりともしないで雑誌を読むハハ。
こんな親子に思わず釘付け状態になってしまった。
こういう場面て、見てるだけで、呼吸が浅くなってしまう。

帰り際、偶然(って私、ドキドキしながらじろじろ見てたからな~)目のあったその子に、
そっと手を振ると、とびっきりの笑顔で手を振りかえしてくれた。
思わず、両手で大きく手を振ると、ハハも会釈しながら少しだけ和らいだ顔になった。

テーブルで向き合うふたりには、小さな空間しか感じ取れなくなっていたのかもしれない。
そんな空間に風を送り込むと、ふっ~と開けて周囲と溶け込んでいく、そんな瞬間でした。
周囲の人からのちょっとした働きかけで、こんなに変わるふたりの顔が印象的でした。

それにしても、こどもの笑顔は、幸せな気持ちにさせる。

隣町の図書館が主催する託児つき講座に参加した。
今年で10年目の3回の連続講座。
子育て中の人たちにこそ、聞いてもらいたい、今すぐにでも実践できる興味深いものだった。

それにしても、もったいないのは、参加者の数と年齢層。
40~50代の女性が大部分で、託児つきにもかかわらず、
託児利用者は、定員10名のところ申し込み6名、今日は3名の利用。
お陰で、最年少のうちの末娘は、ある意味贅沢なひと時を過ごさせていただいたようだが、
地域性なのか何なのか、担当の方は「預けてまで、という内容なのかしらね~」と

おっしゃっていたけれど、決してそんなことはない。
帰る道すがら、10年ほど前から全国の自治体で始まった託児つきの講座は、
今どんな状態なんだろう?と思いをめぐらせた。


子育て支援ということばが世に出て久しいが、
子育て支援って何だろう?
家族や友人、地域を含む社会全体で子育てをしていくということの必要性は叫ばれているものの
具体的な動きは、限られた地域の限られものになっていて、まだまだ発展途上。


子育て支援は、多くの場合こどもの一番身近に居る大人たち(母親や父親)への積極的な働きかけによって実現すると思っている。内側外側双方からの働きかけが必要だろう。

●こどもの心と身体を健やかに育むために、必要な技術を伝えること
●親たちを潜在能力を能力を秘めた一人の自立した大人として捉え、
社会にその力を還元していくこと

個人的には、2つの柱を考えているのだ。土台がしっかりしていれば、
揺らがないし、応用も利く。
明確な土台あっての支援でなければならないとおもう。

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