長い長いお盆が終った。

世間では、多くの人がお休みを取ってゆったりと時間が流れる時、

我が家では、僧侶である夫も、寺族である私たち家族もそれなりに忙しい。

この10日間にお会いしたのは、通して約800人ほど。

お参りの会場の準備や食事の手配、お茶の接待に後片付け、

文字通り家族総出、もちろん他にも沢山の方に関わっていただきながら、

何とか終えることができた。

 

このお盆期間中の我が家のこどもたちといえば、色んな大人たちに囲まれて、

時には見よう見まねで、時には丁寧に教えてもらいながら、

年相応におとなの仕事に係わってくれた。

息子は今年から一人で棚経(お盆期間に檀家さん宅に出向いて

お経をあげさせていただくこと)に回らせていただいたし、

2年前からは、他のご寺院のお坊さん方と一緒に施食にも参加させていただいている。

娘たちも、食事の後片付けや精霊送りのお流し品の受け取り、

他にもいろいろと力になってくれるようになってきた。

長女は、両親と自分達の昼食の準備をしてくれたし、

2歳の末娘だって、時には猫の手を上回る働きをする。

普段のお手伝いは、ごっこ的な要素が強いものだけれど、

このときばかりは、周りの大人は真剣だし、

やればやっただけ本気で誉めてくれる人がいるという状況は、

こどもにとっても、ただのお手伝いではなくなるようだ。

いろいろな大人のいろいろな仕事のやり方を垣間見ながら、

少しずつルールを覚え、人間関係の機微を感じ取る。

それが上手な子もそうでない子もいるけれど、

感じ取る能力は磨けば、光る!。

身近にいる大人は、いい人、立派な人ばかりではないし、

大人も子どもも色んな人と出会うのがこの世の中。

その中で、どう対処して、どんな風に生きていくかは、自分自身が決めていくこと。

楽しいときを過ごすばかりが、夏休みじゃない。

「こんな体験めったにできないんだから!」と、こどもたちには偉そうに語っているが、

親として、これでいいのかといつもいつも迷って悩んでいる。

それでも、お寺のお盆は、期間限定だから、

年に数日だから、こんなことがあってもいいんじゃないかと、思う。

子どもは子どもなりに何かを感じ取っているんじゃないかと。

でも、正直なところ、たかが年に数日のこの期間は、

余裕がなく、カリカリしてしまって、夫婦だけでは処理しきれない場面が多々あり、

こどもたちの心がギシギシいっているのが聞こえてくる。

こんなとき、どう対処していくか、何を背負い何を委ねるか、

コミュニケーション力と、時々での機転と配慮とが必要だと自戒を込めて思う。

 

それにしても、この行事を滞りなくこなせるようになるには、あと30年は必要だろうな・・・

そうなる前に隠居の身かな。




墓施食後、70数本の蝋燭に火がともった境内地で、花火会を催した。

口コミで、集まってくれたこどもたち約20人。

プラス付き添いの大人と見物客(?)、総勢50人ほど。

初回としてはちょうどいい人数で、のんびりと花火を楽しむことができた。

 

嬉しかったのは、施食後そのまま残って、

花火会にお付き合いくださった檀家さんが、思いのほか多かったこと。

初めて出会ったこどもたちを、あたたかい目で見守ってくれる大人たち方が、

こんなに沢山いることの発見が何よりも収穫でした。

 

この夏は、イベント続きで、まるでイベント寺みたいになっていますが、

特別なことではなく、日常の暮らしの中に溶け込むような場所でありたい、

日常の中にある非日常的な空間をつくっていきたいと、常々思っているので、

イベントはあくまでもお寺に、足を運ぶことのきっかけのひとつ。

とはいえ、松の木と鐘楼堂に紐を渡して、

苦心してつくった手作りのしかけ花火がなかなか好評で、

「来年も楽しみにしてるわ~」なんておだてられて、

満足感に浸ったりしていた元来お祭り好きの私としては、

来年の構想が、もくもくとわいてきて困っています。

 




2007-08-06 01:22:10昨日今日と、夜施食の後、写経会を開催した。

思いもよらず、沢山の方が参加してくださった。

中でも保育園で知り合った母親たち、小学生の姿がチラホラ・・・

それが何よりも嬉しかった。

写経というと、どうしても中高年者、それも時間のある人たちのもの、

というイメージがあるが、

この行為は、子育て世代にこそ必要なものだ!とまで感じてしまいました。

この世代こそ、誰かのためじゃない、私のためでもない、

何のためでもない時間が、必要だと思います。

母親にとってそんな時間、半ば強制的につくらないとこんな時間できないものね。

秋からは、毎月託児つきで写経会を開催しますので!

 

 

 




8月は1日から7日までの1週間、毎晩夜施食(よせがき)がある。

夜施食という慣習は、全国にあるのかな?

我々は、初めて出会う行事で、少々戸惑っていたが、

ふたを開けてみれば、ナントも面白い。

夜7時半、檀家さんが集まっていらっしゃる。

境内地は、年に数回しか点かない照明で照らされ、

池には、手作りの噴水が水しぶきをあげ噴出す。

読経・説教の後、あれやこれや喧々諤々、お寺の運営について、

境内地に揚げる旗のことといった現実的な問題から、10年後20年後のビジョン、

はたまた、般若心経や陀羅尼の話まで飛び出し、

今日も終ろうかとする頃やっと、おひらきに。

 

参加者は、主に団塊といわれる方々、

こんな贅沢な時間それだけじゃもったいないと思った。

こんな集いに産後の女性を含めた人生の節目を迎えた人たちや、

高校生や大学生、その外にも多種多様な方々が参加できれば、

何て面白いのだろうと。

時には小学生でも、いけるかもしれない。

 

人間、男女を問わず、どんな人でも必ず知識欲がある。

大手を振ってマジメな話を出来る場があるといい。

だから、つくろう!と夢は膨らみます。

 

今日は力の抜きどころが分からないためか、やけに肩が凝り、

調子に乗って、ぶんぶん回していたら、テーブルにぶつけてしまいました。

トホホです。




去年の10月に始めた産後の女性のためのフィットネス、

毎月細々と続けているこのクラスだが、今日は8月クラスの初日。

ろくな集客もしていないのに、どこからか探し当てて下さり、

ちらほら問い合わせがあり、参加者してくださる方がいる。

 

この数ヶ月のドタバタ劇で、もう続けられないんじゃないかと思ったりもしていたが、

やはり参加してくださる方がいるのだから、続けていこう!

今の自分の状況でできる環境をつくろう!

と今月から、会場を自宅に移した。

 

 

フィットネスのクラスやまめっこの親子教室、お寺や保育園・学校で

出会う母親になった女性と接していていつもおもうこと、

それは、多くの女性が自分のもつ力を持て余しているんじゃないかということ。

そんな自分に気付き、その力を自己満足ではないカタチで発揮していければ

どんなにスバラシイかということ。

カラダを動かすこと、アタマを動かすことで、見えてくるものが必ずある。

だから、何かのきっかけ、ひとつのstepになれば、という思いで、

産後クラスはこれからも続けていきたいとおもっている。

 

そしてもうひとつ、今月も素敵な女性が参加してくださいました。

この出会いこそが私が求めているものだとあらためて気付きました。

華やかではないけれど、ここを拠点に地道に続けていきます。

 ということで、mother step9月クラス受付中です。

詳しくはコチラ




何年も夫とふたりで温めてきた企画、お寺でのお泊り会をした。

今回は小学4,5年生7人が参加してくれた。

 

ここに来る以前、2年ほど前から「早起きの会」なるものを

自宅の一部屋を開放して細々とやってきた。

土曜日の朝の限られた時間なので、内容は坐禅をちょっと、

読経をちょっと、その後はテーマを決めてお話したり、絵本を読んだり、

時には朝の散歩に出かけたり、のんびりとした感じで、こじんまりと続けていた。

 

今回は、花火とお風呂の後は、読経あり説教あり、

朝は5時に振鈴(しんれい) (起床)、坐禅、朝課(ちょうか)(朝のお経)()()

禅寺の一連の流れをなぞる予定を組んだ。

夜の花火以外は、結構マジメな内容だったので、ちょっと心配だったが、

さすが5年生にもなると、何にでも食いついてくる。

 

 

夜、おやすみなさいの読経の後「怖い話しして~」の声に、夫が選んだのは、

戦時中のガダルカナル島における市民兵の壮絶な死の話だった。

期待していたお化けのはなしより、多分、何倍もおぞましい人間の姿に、

身じろぎもせず聞き入っていた。

 「どうして戦争なんかするんだろ?」「金儲けのためじゃない?」なんてことから始まり、

「大人ってわかんね~」になったり、友だちとの関係やいじめの話になったり、

このままずっと話してたら、どんだけを広がるだろう?と、

いつまでも聞いていたいような気もしたが、もう半分眠っている子も出てきて、

終了に・・・

その後、フラフラになりながら床に就くと、そのまま眠りにつく子あり、

じゃれあったり、馬鹿話したり、さっきとはまるで違う顔。この切り替えが羨ましい。

 

 

朝食後解散のはずが、そうはいかず、恒例の水鉄砲対決。

短い睡眠時間でよくここまでカラダを動かせるものだと関心していたら「お昼ごはん何?」だそうな。半ば無理やりの解散。

 

 

同じメンバーで寝食をともにし、長時間行動していると、

色んな人間模様があり、笑ってしまったり、心が締め付けられたり。

生まれてから10年余り、どんな人に囲まれ、

どんな風に育ってきたのかが見え隠れする。

この子達ひとりひとりに歴史があるんだな、すでに。

大人と違って、心も頭もカラダもすべてを使って遊んだり、

悩んでいる姿は、微笑ましくもあり、切なくもあり。

こちらも、刺激と力をもらいました。

 

ひとりの大人として、この子達に何を伝えていけばいいのだろう、

何てことをお盆を前に思うのでした。

 










このところ中国産食品に関する不祥事が相次いでいる。

もちろんそんなことが事実なら言語道断。許されることではないし、

しかるべき対応が必要だ。

ただ、違う方面からのアプローチも必要だとおもうのだ。

 

いたるところで食育という文字を見かけるこのごろだが、

私は「その土地でとれる、その季節の食べ物をおいしく楽しく残さずいただく」

ことが食育の原点だとおもっている。

食べたい時に食べたいものが食べられる、このこと自体が、

特別な時代の、特別な土地に住んでいる特別な人だけに許された特別なこと。

第一貪るように食べる姿って、美しくない。

 

中国だけを悪者にすればすむという表面的なことではないと思う。

食は、人間が生きていくうえで何よりも大切なこと。

私も鰻が好きだし、近所にある美味しい鰻やにも時々お邪魔する。

だから、私たちにも責任の一端があるんじゃないかと、

人間の度を越したわがままが引き起こしたこととも言えるんじゃないかとおもう。




友人が仲間と一緒に開いた絵画展に行ってきた。

仲間数人とスペインを10日間、

ワインと生ハムを片手にスケッチ三昧の旅行だったそうな。

最終日のギャラリー内の中央の丸テーブルには、ワインの空き瓶が何本も・・・

 

ほろ酔い加減のおじ様が、美術音痴の私を、丁寧にエスコートしてくださった。

この方、一流企業の要職についている方だそうで、後から聞いて、恐縮してしまった。

 

同じ町並みを描いていても、それぞれが、まったく違う表現。

立ち止まってしまう画がある。

中でも一番気に入ったのは、フラメンコを踊る女性の画。

今にもこちらに向かってきそうに躍動感が、白と黒の画の中から流れ出る。

脚の線が描かれていないのに、ないはずの線が見えてくるから不思議だ。

その美しさに心奪われた。

随分長い時間そこに立っていたのか、友人が

「今日は販売なしよ~」耳元でささやいた。

 

最終日、終了間近のギャラりー内、出展者たちは、スケッチブック片手に、

世代や職業を越えて語り合う。

そんな仲間をもつ彼女が、いつもの彼女とはまるで違った人に見えた。

 




秋から始まる企画の打ち合わせで、

某化粧品会社のマーケティング部門の課長さんにお会いした。

その後、同行した友人とランチをとって、我が家の日常会話だよね~とか言いながら、

学生時代のこと、今の教育のこと、お受験のこと、しつけのこと、

日本の現状について語り合った。

 

お寺に帰れば、何人かの来客があり

(戦前のお寺の様子を詳細にお話ししてくださる方、

境内の整備してくださる方、お散歩途中で立ち寄ってくださる方・・・)

その方々とお話をして、夕方には保育園組みの娘たちをお迎えに。

そのついでに明日の池掃除のお誘いをして、NPO関係者と電話で打ち合わせをして・・・

これが、私の日常なのだが、こんな生活をしていると、

時に自分の中の振り子が大きく、それも乱れて振れることがあり、

その振りが静まるまでに、時間が必要になったりする。

 

話は飛ぶが、5,6年前に1度だけ女性を対象にした異業種交流会というものに参加したことがある。

それなりの会費で、それなりの会場で開催されたその会には、

弁護士、税理士、起業家やショップ経営者、その他にもいろいろな職種の方々が参加されていた。

そこで知り合って、今でもお付き合いをさせていただいている方も何人かいる。

そういう場では、沢山の刺激を受けて、情報をもらって、元気をもらった。

ただ、それが社会のすべてではなくて、そこには、異業種交流会に興味を持つ人たちだけが集まっているんだ。

あたりまえだけど、そんなことを思ったりした。

 

人との出会いは、心地良いものだけど、時に相当な気力・体力も必要で、

振り子が大きく振れた日は、さすがにカプラの誘いにものれない。

 

 




小雨の振る中、メダカやフナ、ヤゴやゲンゴロウをタモですくいました。







 




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